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第四部 テニアン民間人の悲劇

あゝ小沼巳子先生

小沼巳子先生は栃木県那須郡親園村南区、小沼民十郎氏の三男として生まれた。小沼民十郎氏は旧親園村長を務めた名門名家の出身である。民十朗氏は十人からの子沢山であったため、巳子先生は小学校三年から五年まで、遠縁に当たる大田原町の日蓮宗正法寺に僧侶の小僧見習いとして預けられた。(当時としては、口減らしの為らしかったが、)冬は冷たい寒風の中、冷水で手を真っ赤にして板場や庫裏の雑巾掛けや掃除等を毎日やらされていた。それを祖父が見て、何しろ未だ九才の幼い子どものこと故、かわいそうにと思い、実家に連れ戻そうと家に帰り皆と相談した。すると、一番不憫に思う筈のその母が、「それが修行なのだ。」と言う。皆唖然として、「この母にてこの子あり。」と思い、連れ戻すことは断念した。

間もなく三年間の修行を終えた巳子先生は向学心に燃えていた子ども故、三年間のブランクをも乗り越え、見事に師範学校に合格、師範学校を終えると直ちに、黒磯国民学校に奉職した。やがて西那須野町南国民学校へ転校を命ぜられたが、氏自身はこの転校命令を左遷と思い、自ら辞表を提出し、自宅にて模索の日々を送っていた。その時期に南洋のテニアン島の国民学校教員の話があり、勇躍テニアン島に渡った。

当時のテニアン島は、良質の砂糖キビの生産により、東洋一と言われた南洋興発会社の製糖工場があった。スペイン風に見える町並みに様々な商店が並び、活況を呈していた。小沼巳子先生はテニアン上陸後、カーヒー国民学校に着任し、福島県人・韓国人・沖縄県人の子供達に日本の義務教育を教えることになった。

テニアン駐留の第一航空艦隊第二飛行場の鳶部隊の工作科・金属工作の森島愛守兵曹長(栃木県烏山町に存命)とは特に仲が良く、時々トドロキ酒等を持ち寄って飲み交わしたと言う。

昭和十九年六月十二日。延べ三百機の米艦載機が本格的な爆撃をテニアン全島へ繰り返し、第二飛行場も潰滅的打撃を受け、小沼先生と森島兵曹長は分かれ分かれになり、小沼先生達は全員が陸軍の軍属として軍人と行動を共にするようになった。当時のテニアン在住の教員と警察官は内地とは違った特別待遇であり、半任官待遇であった。

この時までカーヒーの学校の裏で農業に従事し、時々学校へ寄っては先生達と茶飲み話をしていた遠藤晴美氏(福島県摩耶郡山都町在住・生存)にもそれからの先生達の行動は遥としてて分からず、ラソ山付近の戦闘か最後のカロリナスにて玉砕したものか、教え子達と再会することはありませんでした。立派に戦死されたものと思われます。

小沼先生一家は教育一家でした。現在大田原市教育長として活躍しておられる小沼隆氏は十番目の弟。市内の間庭家に養子になられた元大田原小学校長の間庭堅男氏は五番目の弟です。長兄の小沼平重氏は故人となり、次兄の正寿氏は八十歳になられ、元気に各方面に活躍しておられます。正寿氏の御子息は整骨医として開業しておられます。平重氏と正寿氏は二度ほどテニアン島に慰霊に参られております。

優秀なテニアン在住の官民の人達を亡くしたのは返す返すも残念なことです。警備隊司令大家悟一大佐が、「我々軍人はなるべく民間人を助ける様にしたい、民間人は一人でも多く助けたい、民間人は一人でも多く生かしたい。」と口にしておられたのを、最後のカロリナスの司令部洞窟に居合わせた高野が、今でも話しております。

電信員の高野利江氏(福島県原町市橋本町在住、現姓森岡)が、最後に日本に打電した電文は、「我が警備隊は、午後零時零五分、最期の突撃を敢行す。祖国の安泰と平和を祈る。」だったそうです。彼はこの電文を今でも忘れずにおり、時々回想して心の糧にしておる一人であります。

生江家の悲劇

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生江家は福島県会津の出身である。昭和八年頃、東北地方の特に福島県を襲った大凶作は大飢饉を招き、大勢の農耕民が途方に暮れていた。生江家の当主、市雄は南洋行きを決意した。当時のマリアナ諸島は日本の委任統治領で日本人が移住していたのである。

昭和九年、妻のイツ子と共に故郷の会津を出発してテニアンへ旅立った。

テニアンに着いてからは南洋興発株式会社の工務課・西ハゴイ事務所に電気技師として勤務していた。それから数年は平穏な毎日が続き、一男四女の子供も出来た。

子供達は近くのハゴイ池で魚採りに興じ、就学した子供達はウネハーブィの海岸へ海水浴に行ったり、暖かい南洋の生活を楽しんでいた。大人達にとっても故郷の会津地方の身に滲みる寒さを忘れさせる毎日であった。しかし、そんな生活も戦争という名の悪魔に踏み潰されて行く。

昭和十九年二月、突然米軍の初空襲があった。長女のセツと次女の三七子はこの時から不安な気持ちを抑えることが出来なかった。間もなく二回目の空襲があり、母親に連れられて二度ほどラソ山の防空壕に入った。それから間もなくして父の市雄は軍属に徴用され、軍と行を共にすることになり、家族とは別れなければならなかった。それが最後の別れとなった。父の市雄はラソ山での戦闘か、或いはカロリナスで集団自決したのか、父のその後の行動を知る者は無かった。

昭和十九年四月、米軍はマリアナ諸島に迫っていた。婦女子のみ内地に帰還せよとの命令が発せられ、生江親子も内地に帰還することになった。小舟でサイパンに渡り、サイパンからは貨物船で内地に向け出航した。船上では皆、テニアンの方を見つめ、生江親子もまた父親の無事を祈りつつ、後ろ髪を引かれる思いで旅立った。航海の途中、米潜水艦の攻撃をかわしてマリアナ諸島、小笠原諸島、伊豆諸島の方々の港に立ち寄り、一ヶ月ほど掛けて横浜に上陸することが出来た。

その後の生江家の母子の苦労は筆舌に尽くせぬものであったと言う。元々故郷では暮らしが立たぬ故、外地の南洋に夢を託したのだ。そのささやかな夢も打ち砕かれ、大黒柱の父親は軍隊に取られて死処も解らぬまま五人の子供を女手一つで育てなければならなかったのだ。

平成三年の慰霊団には長女のセツ様御夫妻、次女の三七子様御夫妻、三女の三八子様が参加され、カロリナスの守備隊最期の地とバンザイ岬にて亡き父を偲び、至心に供養された。セツ様は他の方と二人で戦死者を弔う「平和観音讃仰和讃」を詠唱され、涙されておりました。ハゴイ池近くの自宅のあった所では子供の頃の過ぎし日々を思い出し、父の御霊に香を手向け、内地から汲んできた水を供えてしばしの間祈られておりました。

母のイツ子様は福島県の裏磐梯に御子息の展雄氏と暮らしておられます。亡夫の分まで長生きされますようお祈り申し上げます。

節子(野田利勝氏の資料を含む)

高橋節子(現姓安済)は父林平、母マツの長女である。ソンソン第一農区の家から火葬場近くの崖道を通ってテニアン小学校へ通学していた。昭和十九年の二月、四月、六月に米軍の空襲があり、急ぎ防空壕を造って壕生活を始めた。米軍の爆弾とナパーム弾は軍民を問わず雨あられと降り注ぎ、地上にある物は全て破壊され、焼き盡くされた。当時、高橋家では九才を頭に妹二人がおり、下の妹は病気がちでやがて病死し、次の妹も産後の肥立ちが悪く、防空壕の奥で死亡してしまった。母は身動き出来ないでいた。

節子の父は友人の一ノ瀬に相談を持ちかけ、一ノ瀬の二つある防空壕の一つに移ることにした。お互い身動きの不自由な者がいては行動の自由が利かず、一緒にいる方が何かと都合が良かった。

高橋の友人の一ノ瀬の家も同じ様な境遇にあった。悪夢の襲いかかるまで一ノ瀬家は南海の楽園、テニアン島で平和に暮らしていた。父と母、二男四女の子供達の八人の家族はカーヒー第三農区、テニアン火葬場の上北寄りに居を構え、砂糖黍を栽培していた。

マリアナ諸島に米軍の影が射し始めるとテニアンに海軍航空隊基地の建設が始まり、基地海軍航空隊地上要員と設営隊が上陸し、飛行場造りが急ピッチで進められた。テニアンの民間人も進んで協力し、軍民の区別無く汗を流した。やがて東ハゴイ農区と西ハゴイ農区に亘って第一飛行場が完成、次いでカーヒーに向かって西側に第二飛行場も完成を見た。第三、第四飛行場は建設途上であった。

昭和十九年に入ると二月に一回、四月にも米軍の空襲があり、全島の民間人は防空壕造りを急いだ。軍に協力したくとも自分達の身を守るのが精一杯という毎日が続いた。一ノ瀬家も毎日防空壕の生活が続き、母は子供達を前にし、「明日、日本の連合艦隊が来ない時は家族全員で自決をしよう」と思い詰めた顔で言うのだった。

七月二十四日、遂に米軍が上陸して来た。日本軍の反撃に遭い、相当の犠牲を払いながらも艦砲と空爆の援護射撃により、ウネハーブィの海岸より強行上陸してしまったのだ。翌二十五日も日米両軍の死闘が続いた。二十六日、一ノ瀬親子が身を潜めていた防空壕は突然米兵に囲まれてしまった。父の熊喜氏は防空壕を出ようとしたところを米兵に撃たれ、手の肘と足の膝を負傷してしまった。暑い南洋のこと、傷口にはすぐに蛆が湧き、いくら取り除いても限りなく蛆が湧いて暫くはひどい状態が続いた。そんな折り、近くでやはり砂糖黍の栽培をしている知人が訪ねてきた。彼は、「もうだめだから、妻と子供を殺してきた。自分は死に切れなかった。一緒に死にたい。」と、呆然とした様子で語った。「自分達にその気は無い。安全な所に移るつもりだ。」と一ノ瀬が言うと、彼は気落ちした様子で去った。

ここも安全ではないと悟った一ノ瀬は一緒に逃げようと、高橋家のいる防空壕に向かった。しかし、途中で米兵に発見され、取り巻かれてしまった。節子達がいた防空壕も囲まれてしまい、外から英語で「出て来なさい、」と言われた。父親は軍属としてゲートルを足に巻き、きちんと服装を整えて防空壕を出た。節子と父と一ノ瀬夫婦はすぐに米兵に捕らえられたが、節子の母は壕の中から出ることが出来なかった。節子の父は地面にあぐらをかいてしまい、てこでも動かぬ様子を見せた。一ノ瀬の次女と三女は米兵とは反対の方向に逃れたが、母が捕らえらるのを見た次女は母の所に駆け戻った。三女は林の中から様子を伺っていた。節子の父は相変わらずあぐらをかいたままだった。米兵は盛んに投降を勧めている様子だったが、彼は頑として言うことを聞かず、「私は日本の軍属だ。この胸を撃ってくれ。」と、何度も自分の胸を指している。米兵はなかなか意味が解らずにいたが、暫くして銃声がし、彼は胸を朱に染めて倒れた。米軍には彼の服装は軍人と見分けが付かなかったろうし、彼もまた軍人同様、いや、それ以上の気概と覚悟を持っていた。

節子と一ノ瀬の家族は米兵に連行されて行った。第二飛行場を通りかかると既に大勢の米兵がブルドーザーで整備を始めていた。轟音を発てて動き廻るブルドーザーも節子には猛獣のように恐ろしかった。なすすべも無く連行されて行く節子は母のことが心配でたまらなかったが、どうせ自分も殺されてしまうのだという思いが彼女を悲しく救っていた。

収容所に着くと煮えたぎるドラム缶の前に座らせられた。周りを銃剣を持った米兵が取り囲んでいた。やはり、と節子は思った。この中で煮殺されてしまうのか、今まで聞かされてきた事は本当だったのだ。

飯を出されて節子達は呆気にとられた。「殺されない!」安堵の思いが一同によぎった。殺されないと知ると、母が居ないさびしさが急に込み上げてきた。それは先程の恐怖よりも節子の胸を締め付けた。

林の中から節子の父が殺されるのを見ていた一ノ瀬の三女も米兵に発見されたが、彼女は子供ながらにも連行されるのを拒んだ。米兵が飴を出してなだめようとしたが、受け取ろうともしなかった。困った米兵は自分で飴をなめて見せ、やっと納得させることが出来た。節子はあとから連行されてきた彼女に父の最期を聞かされた。母の消息は不明だった。続々と収容されてくる人々の中に母の姿を求めたが、遂に見つけることが出来なかった。節子の母は従軍看護婦であった。夫の後を追い、壕内で自決したのかも知れない。九才の節子にとって、一人ぽっちになってしまった事を納得するには時間を掛けなければならなかった。

節子達が収容されたのは仮設収容所であった。そこでは朝鮮人が床の上に、日本人は床の下に寝かされた。やがて本格的な収容所が建設され、そこに移ると御飯のオニギリが支給されたが、節子の食べるオニギリはいつも涙に濡れていた。節子は一ノ瀬家の人々に家族同様に可愛がられ、交際は内地に帰った現在も続いている。とりわけ三女の米子とは節子と年齢が近いこともあって姉妹同様の付き合いであるという。

内地に帰った節子は菅野家に貰われて養女となった。長じて安済家に嫁してからもテニアン慰霊の話がある度に夫の深い理解もあって幾度と無く参加している。

米軍が上陸して以来、数千の民間人はカロリナスを目指して逃れていった。追い詰められてバンザイ岬より身を投げた者、その数三千五百から四千名、洞窟に逃れ、米軍の爆弾や火炎放射機で最期を迎えた者、手榴弾で集団自決した者、その詳細は未だに不明である。逸話がある。家族と共に自決を決意した父親は、子供達を出刃包丁で次々と刺し殺した。年かさの息子が血の着いたその包丁につかまってイヤダ、イヤダと泣くのを無理に刺し殺し、自分も自決して果てたのである。洞窟に潜んでいた若い母親は、米兵に察知されるのを恐れた兵隊に泣き止まぬ赤ん坊を殺すよう、強いられた。これは実話である。テニアンではこの様な陰惨な光景が方々で繰り広げられたのである。玉砕の島に軍民の区別はなかった。

バンザイ岬

テニアンにもバンザイ岬がある。紺青の海から垂直に切り立った断崖で太平洋の怒涛が珊瑚の岩礁を咬んでいる。ここからはテニアン守備隊の最後の司令部となった洞窟のある絶壁を望むことが出来る。

米軍の上陸、戦線の後退につれ、民間人もしだいに逃げ場を失い、或いはマルポー岬に、或いは後にバンザイ岬と名付けられるカロリナス台地下の断崖に追いつめられていった。絶望した彼らはためらうことなく断崖より身を投げた。ある老人は天皇陛下万歳を叫び、ある婦人は両わきに子供を抱え、またある婦人は乳飲み子を抱き、次々と身を投げた。それは数百人に及んだ。岩礁には累々と屍が重なり、海は真っ赤に染まった。身を投げた中に一人だけ助かった者がいた。あまりにも多くの人々が身を投げたために岩礁が死体で覆われ、その上に落ちて奇跡的に一命を取り止め米軍に救助されたという。

勿論、追い詰められた全ての人が身を投げたわけではなく、降伏した者、逃げ遅れて捕らわれた者も大勢いた。彼らは収容所に容れられた。

それにしても日本は何という教育をしたのだろう。「生きて虜囚の辱めを受けず」この戦陣訓は軍人のみならず民間人をも厳しく律してしまったのだ。


あとがき

今年もまた夏がやってきた。暑い陽射しは私の裡なる戦場を呼び起こす。半世紀を経た今でも私の心の戦場は熱く燃えている。南冥の彼方のテニアンが私を呼んでいる。戦友が呼んでいる。

毎年のように私はテニアンを訪れる。亡き戦友に会いに行くのだ。皆、故郷の話をしていた。いつも故郷の話だった。故郷の山や河、父や母のこと、兄弟や我が子のこと、南十字星の下、話は尽きることがなかった。皆、故郷に帰りたかったのだ。さあ、また会いに来ました。昔のように話をしよう。しかし、語り掛ける私に戦友は応えては呉れない。それでも私は話し掛ける。

戦友の骨も出来るだけ御遺族にお返しした。慰霊の碑も建った。しかし、テニアンは死の島、屍の島なのだ。テニアンの土には一面に我が同士、我が戦友の血が染み、永遠に消えることはない。私の慰霊の旅は続く。

私は朝一番に我が家の仏壇に一杯の水をあげる。この水がどんなに欲しかったことか、どんなに飲みたかったことか。我が家の先祖と共にテニアンの亡き戦友に捧げ、彼等の御霊の平安を祈る。あの時、この水があったなら、この一杯の水を彼等に飲ませてあげることが出来ていたなら。叶わぬ願いであったと知りながらも私の悔いる心は止むことがない。

我々と行動を共にした戦友。洞窟内で僅かな水を飲むと眠るように息を引き取った横浜の永田氏、カロリナス南端で一個の水筒の水を皆で分け合って飲み、自決した刑部上水、二本ヤシ、柴田砲台の上で見張り中に敵弾を受け、最期に「水だけ、」とつぶやいた西海石水長、誰もが最後は「水」であった。

テニアンを訪れる人々よ、若人よ、この本を読んだなら、あなた方のために血を流した者達がいた事を知ったなら、彼等のためにせめて一刻の祈りを捧げて欲しい。出来るなら一杯の水を捧げて欲しい。あなた方の青春は彼等には余りにも眩しすぎるのです。

米機動部隊の来襲前にトラックで仕事をしていた頃、時々休憩させて頂いた民間の方々の顔が今でも目に浮かぶ。福島県の方々、沖縄の方々、幸い一昨年の慰霊団の中に福島県出身であった方々がおられ、半世紀ぶりにお会いすることが出来ました。当時テニアンで農業をされておられた山内セツ様、大村三七子様、鈴木三八子様、安斉節子様等々。同じくテニアンのカーヒーで農業をされておられ、今年の五十回忌に慰霊団員として参加された遠藤晴美様他、多数の方々。

大家司令の「民間人は助けたい」との最期の言葉は報われ、多数の民間の方々が無事に内地に帰ることが出来ました。亡き大家司令に報告させて頂きます。

私のテニアン訪問も十一回を数えました。まだまだ足腰の続く限り、私の慰霊の旅は続きます。テニアンは私の心の故郷。過酷な、しかし熱い命の故郷。

この物語は四十九年の永きに渡り、私の脳裏に刻み込まれて一刻も忘れえぬものとなっていた真実の記録であります。もとより私にテニアン戦の全貌は知る由もなく、ここに記すことが出来たのは一兵士の目に焼き付いた、海軍第五十六警備隊、陸軍のごく一部、海軍航空隊の一部の方々の記録にとどまりますが、以上を以てしてもテニアン戦の地獄図絵を垣間みて頂けるものと思います。

今までもテニアン慰霊の旅より帰る都度、この記録を残さなければとペンを執ったが何故か筆が進まず怪訝な思いでおりましたが、本年五十回忌を終えて帰ってみると筆が進むではありませんか。昨年は海軍第五十六警備隊の慰霊碑が建ち、今年は五十回忌の慰霊法要を終え、気持ちの整理がついたためでしょうか。あるいは亡き戦友の意志がそうさせたのかも知れません。

この記録を残すことによって戦争の悲惨さと愚かさを知って頂き、空しく散っていった戦友の慰霊ともなれば望外の幸せであり、私に思い残すことはありません。


平成六年春彼岸    遥かなるテニアンを偲びつつ


御礼とお詫び

テニアンには現在までに数多くの慰霊団が訪れ、現地の方々にひとかたならぬお世話になっております。その度に快く乗り物を提供して下さり、案内役までお引き受け頂き、飲料や弁当の世話、宿泊所の世話、自宅に招いて歓待して頂いたこと、自分の仕事をさしおいても我々に協力して頂いたこと、裕福でもないのに自分の畑で採れた果物をトラックに山ほど積んで来て我々に食べさせてくれた方、

皆さん親戚のように我々を歓待して下さった。墓標を断崖上に立てた時、慰霊碑を建立した時、進んで協力して下さった方々、涙の出るほど嬉しかった。それにも拘らず、我々にお返し出来ることがあまりに少なかったことをお詫び申し上げると共に満腔の感謝の意を表します。テニアン市長を始め現地の方々、本当に本当に有り難う御座いました。これからも厄介をお掛けすることと思いますが何卒ご宥恕のほどお願い申し上げます。

現在テニアンで果樹園を経営しマリアナ政府の要人としても活躍されておられる平野欽也様には慰霊碑建立に際して土地の交渉や建立の許可申請等、我々の為に奔走して下さり、その御尽力には只々頭の下がるばかりで御礼の申し上げようも御座いません。

未だ四十代後半の戦争を知らない世代であり、遺族ということでもないにもかかわらず戦争に関心を持ち研究もされ、テニアンにも何度も渡り、私の「死の島テニアン」の出版に際して並々ならぬ御協力を頂いた福島県伊達町在住の野田利勝様、同じく何度もテニアンにお参りされ、私共の慰霊碑建立に際し多大な御支援を頂いた安斉節子様、ここに御厚情を感謝し厚く御礼申し上げます。

毎回のように老体をおして慰霊団に御同行頂き、懇ろな供養をして頂いた正観寺住職、桑久保光尊師、心より御礼を申し上げます。

慰霊団に参加され、暑熱の中「平和観音讃仰和讃」を連日のように斉唱して下さった次の方々、昭和六十三年度の小高フサ様、鈴木千枝様、長峰ハマ様、間庭良子様、桑久保利子様、相良トシ様、平成三年度の伊藤満喜様、山内セツ様、平成四年度の鈴木千枝様、伊藤イチ様、加藤チカエ様、小沼いよ様、本当に有り難う御座いました。戦友もさぞ喜んで呉れたことと思います。

慰霊碑建立に際し、我々の微志をお汲み取り頂き、材料費のみの廉価にて制作して頂いた藤田石材店様、厚く御礼申し上げます。

テニアン慰霊を紹介し、世間の関心を高めて下さった新聞社、テレビ局の方々の御厚意に深甚なる謝意を申し上げます。

慰霊旅行に際し我々の趣意を汲み取られ、種々御協力を頂いた名鉄観光様、近畿日本ツーリスト様、大変お世話になりました。厚く御礼申し上げます。

慰霊団に参加された御遺族の方々には我々主催者の不慣れ、不手際により御迷惑もお掛けし、御不満な点も多かっただろうと存じます。何卒御寛恕のほどお願い申し上げます。