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第一部 玉砕、崩れ去った防波堤

徴集令

昭和十八年、私は故郷を離れ、横須賀にいた。横須賀に姉の家があり、其処から通ってトラックの運転手をしていた。横須賀の武山海兵団へ砂利や砂を運ぶのが仕事だった。実家では、寡婦であった母が僅かな田畑を耕し、三人の弟妹と暮らしていた。

四月になって実家から知らせがあった。私に赤紙が来たのだ。私は一度実家に戻り、横須賀にあった海兵団に入団した。其処で海兵としての初年兵教育を受ける事になった。訓練はきつかった。一番きつかったのはカッターボートの訓練で、何組かで競走させられ、ビリになった組は兵舎を二周させられてから食事にありつけるのだが、大きな兵舎を二周もすると食事の時間は無くなって、空き腹を抱えて寝なくてはならなかった。吊床訓練、これは凄じい猛訓練で、特に私のような身長の無い者は片方のフックは何とか掛けられたが、もう片方のフックが問題で何度も跳び上がってやっと掛けることが出来た。この時ほど身長の無い者の悲しさを味わった事は無かった。海兵団ではあまりバッタ棒のお世話にはならなくて済んだ。間もなく海兵の基本訓練も終え、上陸(上海陸戦隊)行きの命令が下った。同期の中に歌手の霧島昇も居たような記憶もあるが、定かでは無い。冷たい雨の中、合羽を着て海兵団を出発した。

上海

昭和十八年春、海軍の基本訓練を受けた私は軍艦「春日」での艦務実習を終えると直ちに船にて和歌山沖を通り、呉軍港に入った。其処で巨大な軍艦を見た。これがなんと戦艦「大和」なのだ。「大和」の横腹には大きな穴が開いていた。引率の下仕官の話では「大和」は南方戦線にて米潜水艦の魚雷攻撃を七本も受けても悠々と日本へ帰還し、只今、呉のドックにて修理中なのだと言う。なんと日本一、いや世界一の軍艦は大したものだと皆で自慢もし、驚きもした。

軍港内には特殊潜行艇も多数航行していた。その異様さに馴染む間もなく呉港も出航し、九州は佐世保軍港に入港したところで少し休養を取り、いよいよ船は玄海灘の波頭を乗り越え、上海へと向かう。

出航して広い海原へ出ると船が大きくローリングを始め、数時間経つと皆が船酔気味で私も気分が悪くなってきた。その筈で初年兵の我々は海上経験も少なく、ましてや名にしおう玄海の荒波である。ここで「初年兵とは云え、自分は日本海軍の兵隊なのだ。ましてやこの船には船上勤務の古参兵も居ることだし、船酔の面などして居れるか」と気を引き締め、ふらつく足で食事当番もし、一応艦船勤務の格好だけは付けていた。

洋上三日ほどで黄浦河の河口へ入る。この河の大きさたるや向こう岸が見えないほどで、その川中を無数のジャンクが行き来する様、内地では見られぬ風景である。やがて船は上海港に着岸、とたんに無数の小舟が群がってきて中国人が皆手を出しているではないか。これは日本から積んで来て不要になった木箱などを欲しがっているとのこと、これにも少々驚いた。

やがて上陸。引率の下仕官数名と我々初年兵約三百名は衣嚢を担ぎ車で任地である上海陸戦隊へ到着する。陸戦隊本部に入ると本部両側の棟には剣道、柔道の段持ちや級持ちが大勢おり、これは大変な部隊に来てしまったと同年兵と顔を見合わせた。明日からさっそく陸戦隊の陸上訓練なのだ。きつい訓練になりそうだ。

上海での初めての一夜が明けると引率の下仕官はいなくなり、新しく教育係の下仕官が決まった。私の班には年輩の下仕官が班長となり、長野県か山梨県の応召の色の白いおとなしそうな人で、善行章を二本も付けた海軍一等兵曹であり、自分は郷里に妻や子もおる等と話してくれた。

さて陸戦隊の実戦演習が始まる。陸軍と同じ実弾射撃訓練等、連日猛訓練が続いた。訓練も辛かったが苛めも辛かった。私は背丈が百六十センチと海軍でも小兵な方なので毎朝、他の班の上等水兵や兵長など二、三年兵に呼び止められ、

「俺がおまえの背丈を伸ばしてやる」と言いながら私の足を大きな軍靴で踏みつけ、両手で私のあごを何度も持ち上げると、「どうした、少しは背丈が伸びたか」と言う。「はい、伸びたような気がします。有り難うございました。」と礼を言うと別の古参兵がそばから、「伸びたような気がしますとは何を言うか、こっちへ来い!」と言う。また同じ事をされ、礼を言わされる。これが何日か続いた。

何ヵ月か経って転属を命ぜられた。中国の九江の近くであったと記憶しているが上海陸戦隊の自動車学校への転属であった。そこでは自動車練習の助手を命ぜられたが、これには訳があり、私は横須賀海兵団に入団する以前、警視庁の運転免許試験に合格していたので転属となったと思われる。ここの教班長の温情で教班助手として主にパンク修理を軍務としていたため、毎晩のように車庫前に整列させられ、バッタ打ち、海軍精神注入棒のお世話になるのは他の兵の半分ぐらいで済み、大変有り難かったが、それでもそれを知った内務班の古参兵連中が意地悪をして私一人を呼び出し、バッタ棒を十二回程喰ったこともあり、尻が赤く腫れ上がって上を向いて寝られぬ夜も度々であった。

古参兵と云えばこのような事もあった。車をわざと溝に落とし、我々、兵隊の数名に引き揚げさせるのだが、我々丈夫な兵でも辛いのに、この中に盲腸の手術後退院間もない兵がいて、へっぴり腰でがんばっていたが、その苦しそうな顔は今でも目に浮かぶ。

現在では単なる苛め、嫌がらせとしか思えないこのような内務班での仕打ちも後の戦場での、私にとってはテニアン島での苛烈な戦闘を耐え抜く精神力を培う糧となったのは確かな事であり、かつ団体行動における共同責任の重要さを叩き込まれたのもまた事実である。

中国では良い思い出も有った。「蘇州夜曲」に歌われる彼の地にも何度か演習に行ったが、なるほど良い景観の街であったと思い出される。また、そうこうしている内に突然マラリヤというやっかいな病気に患り、時に四十度も熱が出て上海の海軍病院に入院することになったが、その間、歌手の東海林太郎や女優の宮城千賀子等が見舞いに来られ、無聊を慰められたのも思い出である。

やがて冬が来る頃には病もほぼ癒え、退院の許可も出て、駆逐艦「峯風」に乗せられ、東支那海方面へ米潜水艦を追いつつ九州は佐世保軍港に入港、同年兵同士が同じ汽車に乗り、三日がかりで横須賀海兵団に帰団した。

再び横須賀へ

横須賀海兵団に帰団して小休止を与えられたのも束の間、直ちに「小川隊」に配属を命ぜられた。「小川隊」は砲術隊と陸戦隊の混成部隊であり、隊長は小川和吉といい、海軍砲術学校出身の特務大尉であった。私とは親子程の差の年令で静岡県出身の穏和な風貌の方であった。小川隊長の自宅は横須賀の共済会病院の上の階段を高く昇ったところにある古びた借家でここに夫人と住んでいたが、私は何度も海軍の支給品を届けに行ったものだった。

この「小川隊」には甲板下士官に茨城県出身の若い鈴木重正一等兵曹、彼は砲術学校高等科練習生出身である。先任伍長に青森市出身の中村春一上曹、先任伍長とは下士官兵の中でも最先任を言う。この方は勇敢な方で先の支那事変に於ける抗州湾敵前上陸の際、もやい綱をかついで真っ先に海に飛込み、岸の杭に船を固定して友軍の上陸を助けたが、自分も足に敵弾を受け重傷を負ったという武勇伝の持ち主である。

海軍第五十六警備隊の編成も終了した昭和十九年二月下旬のある朝、小川隊全員に突然の非常呼集がかかった。整列した我々を前に木製の台に上がった小川隊長は「これより我が隊は南方のある島に向かって出発する。私は一足先に飛行機で行って居る。隊員は元気で船で来るように。」と命令口調ではなく全員を諭すような話ぶりで台を降りられた。

昨晩は隊の全員に外泊が許され、今朝か明朝には出発と誰もが解っていたが、出発が急に早まったため、隊長の訓辞に間に合わず遅れる者も出た。彼らが元気の良い甲板下士の鈴木重正一曹にビンタを頂戴したのはいわずもがなである。

別れ

小川隊には私のような独身の兵ばかりでなく、多くの妻帯者の兵も居た。出発の朝、横須賀海兵団の正門を出、波止場の手前より乗船となったが、そこには様々な別れが見られた。見送る事が出来たそれぞれの家族とそれぞれの兵士。新婚の渡辺兵曹などは新妻との別れ、おそらく今生の別れとなる想いに夫人は泣き崩れていたという。見送る者の無い者もそれぞれの郷里、それぞれの家族に想いを馳せながらも皇国の兵士としての衿持を保ちつつ。

我々を乗せた三隻の輸送船は周囲を駆潜艇やキャッチャーボートに守られ横須賀港を出航した。

テニアン上陸

昭和十九年三月上旬と想われる頃、サイパンに上陸していた我々小川隊にテニアン島の海岸要塞砲の築城が下命された。先ず、先発隊として私の四トントラック一台をダイハツに乗せ、兵員二十四、五名が同乗し、サイパン島西側の船着き場を出航した。航海の途上、無礼講と言うことでダイハツの両側から紐で吊るして冷やしたビール瓶を開け、唄も出るなどして息抜きをした。引率の上官も笑って見ているばかりだった。この時の上官の頭にはどんな構想があったのか我々には知る由もなかった。二時間以上掛かってようやくテニアン港に入った。

船の上から見るテニアンの町並みは内地のそれとは一寸異なるように見える。これが南洋と言うものか、横須賀海兵団の厳しい軍律と上海時代のバッタ棒制裁のことなど忘れたようにソンソンの町並を見つめていた。

間もなく上陸となった。ソンソン町の役場が当座の宿舎となり、そこで一夜を明かした。夜が開け初めると整然と並んだ町並みの方々から人の声が聞こえ出し、賑やかになってきた。この時は海軍航空隊の地上部隊と設営隊が急ピッチで飛行場作りをしていたのだ。勿論、着いたばかりの我々兵には解る訳もなく、その時は天国にでも来たような気分でいたものだった。暫くすると後続部隊が続々と上陸してきた。設営隊と工作隊が到着すると、日本ヤシの住吉神社の下に長い兵舎が二棟出来上がり、そこが我が小川隊の基地となった。

運転員

小川隊の運転員であった私と刑部の二人は我々の基地から波止場へ、あるいは各陣地へと毎日往復するようになった。我々のトラックは実に色々なものを運んだ。先ず食料である。何十人分を運ばなければならない。大きな木の樽に米飯を詰め、もう一つの樽には味噌汁を満たし、蓋の代わりにバナナの葉を乗せて埃が入らないようにして各隊に配給して歩いた。副食には福神漬と梅干し、三月、四月頃にはカツオが各隊に一本づつ配られた。味噌汁が問題だった。各隊に着く迄にこぼれてしまい、半分位になってしまうのだ。何度情け無く思ったことか。各隊の兵はもっと情け無かっただろうが。この頃は米軍の潜水艦攻撃により海上輸送が脅かされ、物資の入荷も途絶えがちであった。食料も先細りになり、量も少なくなって来ていた。にも拘らず、各隊の兵は文句も言わずに陣地の構築に精を出していた。

大砲も運ぼうとしたが、これは無理だった。十五糎海岸砲の砲身は七トンもあり、四トントラックでは壊されてしまう。仕方がないのでコロで何日も掛けて砲台となる洞窟まで運んだ。我々運転員は砲の据え付けまでは手を貸さず、本来の運転員の任務に戻った。

兵員輸送も我々の任務だった。ある日、武装した兵員を満載してハゴイ方面に向かっていた。昭和十九年六月に入った頃であったと思う。第二飛行場付近を通過しようとしていた時、突然敵のグラマンが我々のトラックを目掛けてバリバリと機銃を撃ちながら突っ込んで来た。私はアクセルを目一杯踏み、猛スピードでジグザグに逃げた。グラマンが飛び去って一旦車を止め、誰かやられはしなかったかとトラックの荷台を見た。なんと、そこには誰もいなかった。辺りを見渡すと其処此処の岩陰に身を隠しているではないか。トラックの下を覗くとそこにも二、三の兵が隠れている。グラマンが突っ込むや早く、走っているトラックから飛び降り、逃げてしまっていたのだ。なんと逃げ足の早いことか、全員無事であった。

その頃になると小川隊では各砲台の砲の据え付け作業も終り、最後の仕上げを急いでいた。隊員が総出でこれに掛かり、本部はガランとしていた。

食料の補給も乏しくなって来ていたが、内地から運んできた乾燥したカボチャや甘藷薯の切り干し等を保管していた倉庫が米軍機の爆撃に遭い、切り干しから出ていたアルコールに引火して焼けてしまい、それに輪を掛けてしまった。泣き面に蜂であった。

砲台員

七月に入ると米軍機の度重なる爆撃でテニアンの道路は穴ボコだらけになり、車での通行は無理な状態になっていた。やむなく第五十六警備隊・野戦病院の西方のバナナの林にトラックを隠し、ペペノゴル小川砲台に行き、砲台の補助員となった。上官に弾丸の雷管や信管の取付方法を教わり、米艦船の接近に備えることとなった。

我々運転員には些細な役得もあった。毎日トラックで島中を歩いていたので、パイナップルやパパイア等を仕入れてはトラックの道具箱に入れておき、程良く熟したところで食べるのである。この味はまた例によって格別であった。ところがバナナの林に隠して置いたトラックが米軍機に発見されてしまい、機銃掃射を喰らって運転席を貫通した銃弾がトラックのジョイントをも貫通し、走行不能になってしまったのだ。トラックを壊されては運転員も不要になり、本業の陸戦隊員に戻った。

海軍第五十六警備隊

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私が編入された海軍第五十六警備隊は、昭和十九年、大家悟一海軍大佐を司令として下士官兵千三百十六名、将校三十八名で編成された。その内訳は、横須賀の砲術学校を出た兵及び下士官と私共上海陸戦隊より編入された約百名の兵である。

昭和十九年二月、アン式十五糎砲六門と十二糎砲六門を船積みして、クサイ島を目的地として日本を出航した。しかしクサイ島は既に米軍の攻撃を受けており、予定を変更してテニアン島に上陸することになった。

上陸本部を最初はソンソン町の中央に置いたが、後にカロリナス登り口の二本ヤシの近くに置いた。砲台は二本ヤシに柴田中尉指揮する部隊及び十五糎砲三門を、ペペノゴルには小川隊長指揮する十五糎砲三門と戦闘指揮所を、沼田少尉指揮する十二糎砲三門をテニアン北方サイパンの対岸へ、及川中尉指揮する十二糎砲三門をテニアンの西海岸へ布陣して、米艦船の接近に備えた。

この五十六警備隊に海軍兵学校出の小杉敬三という青年士官がいた。若干二十四歳にして大家司令の副司令代理を勤め、まさに片腕とも言うべき存在であった。陸上警備科長、航海長、監視隊長、衛兵司令、第二分隊長をも兼ねていた事でも彼の優秀さが知れよう。彼は第二次ソロモン海戦の折り、軍艦「睦月」に乗り組んで抜群の活躍をした経歴を持つ歴戦の勇士であった。五十六警備隊にとっても貴重な存在であったし、米軍が目睫に迫りつつあったテニアンに於いて、指揮官として最大の信頼を寄せられていた。その彼も大家司令と運命をともにしたらしい。最後の突撃の時に司令と行動をともにした将校が六、七名いたが、その中におられたのかもしれない。

テニアン玉砕直前の司令と佐竹中尉の言葉

今だ玉砕五十二年経た今日でも思い出される元テニアン島海軍第五十六警備隊司令、大家悟一大佐の祖国日本に最後に打った電文「祖国の安泰と平和を祈る」と我々一兵卆にも今日は皆一兵卆として死ぬのだとの言葉と玉砕突撃の直前カロリナスの最後の司令部洞窟を出る時の佐竹海軍中尉の我々後績の兵に我々は玉砕は決してしないとの言葉、昔の楠木正成の七生報国の心境を最後の際に声に出したのを思い出すのです。

返す返すも惜しい方々、軍人を失い残念なり。

小川隊海岸要塞砲台移動構築始まる

昭和十九年、三月の中旬と記憶するが、サイパンより船積みされた十五糎海岸砲は海岸波止場より荷揚げされ、まず最初に小川隊長の指揮所となるペペノゴルへ移送されたが、これが簡単ではなかった。

砲身だけでも七トンもある重い大きな荷物は私の運転する四トントラックに悲鳴を上げさせた。三本の電柱を立ててチェィンブロックを取り付け、砲身を吊り上げておき、そこにトラックをバックで入れて固定し、静かに砲身を降ろし始めると板のスプリングが延び始めた。何と弱いスプリングか、全兵員が見守る中スプリングが折れようとしている。

ペペノゴルへの道路が悪いため、これではトラック輸送は無理との結論が出て砲身を降ろした。急いで波止場や南洋興発精糖会社より厚い道板や丸いコロ棒を集め、コロに砲身を乗せてロープで前を引く兵、後ろからテコ棒で押す兵とに分かれて人海戦術で運ぶことになったのだが、丸一日かけても一門の砲を要塞の洞窟まで運ぶことは出来なかった。

何日も掛けて三門の砲を運び終わると、早速洞窟内を整備して引き上げ、砲鞍の据えつけ等を急ピッチで終えると砲身の上に屋根を掛ける。屋根の鉄骨は砂糖キビ運搬用のトロッコのレールを使用し、その上にコンクリートを打ち、更に土を厚めに乗せてそこに甘薯等を植え付け、銃眼には砲身が見えないように擬装をする。砲台が完成して迎撃体制も整い、米艦隊のテニアン港に来襲するのを今か今かと待った。

このペペノゴルの砲台が完成したのは、五月末か六月始め頃かと思われる。この三門の砲には、横須賀砲術専門学校出身の砲長、射兵等多勢の荒武者士官がいた。一番砲は山本武夫上曹、二番砲は杉本春雄上曹、三番砲は知念興上曹他、下士官と兵が六十名以上配置についていた。

二本ヤシ柴田砲台も隊長の柴田中尉以下、砲術学校出身の先任下士である吉野悌二上曹、藤田松治郎一曹、片平三郎一曹、鈴木重正一曹、大岡信一一曹、何後一曹、下川一曹等、優秀な砲員指揮官が米艦の来るのを待ち構えていた。

沼田少尉のこと

昭和十九年七月始め頃。警備隊司令部の上層部に情報が入っていたらしく、米大機動部隊が近付いており、雲行きが怪しくなってきた頃のことである。私はトラックに武装した兵隊を満載し、助手台の裏にはドラム缶を二本乗せて移動する途中だった。助手席には沼田少尉が注意深く空や地上を監視しながら乗っていた。旧第一飛行場の南側の直線の下り道路を走っていると、荷台の兵隊から突然、「ワーッ」と大声が挙がった。ハッと我に返ると、道路の左側へ車の前輪が落ちているではないか。

急ブレーキを掛けたため、トラックの荷台に乗っていた兵は全員が下のサトウキビ畑に放り出され、ドラム缶二本も後からころがり落ちていく始末だ。沼田少尉は前面のウィンドウガラスの破片で頬の肉の一部が飛び散り、出血多量だったためタオル布で止血をしなければならなかった。『これはえらい事をしてしまった。』

砂糖黍の段々畑をトラックにロープを掛けて全員で引き、百五十米くらい引いたところで道路に戻して小川隊本部まで辿り着いた。

沼田少尉が小川隊長に事故の報告をし、医務室へ手当を受けに行った。ところが桑原兵曹長が本部より出て来て、日本刀を抜きざま、

「前へ出ろッ、ぶった切るぞ。」と大声で言うのです。私も観念して身構えると、日本刀をかざしながら、

「沼田少尉の言葉では、お前の目は開いたまま前方を見ていたという事だ。」大声で続けて、

「日本海軍で目を開いたまま眠って車を運転したのは、お前が初めてだ。よくやった。」と言いながら日本刀を鞘に収めて、

「命令だ、只今より小川隊全兵員は半日休養とする。これは小川隊長の命令である。」と告げられ唖然としておりました。そして私に、

「隊長室に来い。」と言うので隊長室に入りますと果物やら甘い物やら盛ってあり、

「果物でも何でも、好きなものを食べなさい。」と言われた。「食べろ」と言われても将校と同室では喉を通る筈もなく、只困っていたが、

「班に戻れ。」と命ぜられ、班に戻った所でホッと安堵のため息が出た。

我々運転手は全員が二晩寝ずの運転で、兵員や弾丸の運搬をしていたところで、半分眠ったまま運転をしていたのでした。

この事故当時の沼田少尉の指示、自分の負傷にもかかわらず本部に帰隊してからの少尉の報告、桑原兵曹長の父親のような振る舞い、敵来航近しにもかかわらず隊員を思いやる隊長・小川特務大尉の心尽くしを今更ながらに思い出される。

旧日本軍人で階級の上に「特務」のつく人は上級学校を出てなくても、兵より努力して下士官へ、更に将校へと進んだ人です。玉砕がなければテニアンの要塞砲の築城日誌をまとめ、日本へ帰り、砲術学校の副校長となるべき将校であったと言われておりました。

小川大尉にしろ、沼田少尉にしろ、この当時より「玉砕」の二文字が頭にあったものと、今にして考えさせられます。惜しまれる優秀な将兵を失い、返す返すも残念に存じている自決し損ないの一敗残兵でございます。

自決し損なった者として、生ある限り何か世の中に尽くして死にたいと心に決めている者で御座います。

ペペノゴル小川砲台の最期

三門の砲を据えたペペノゴル小川砲台の上の山中に戦闘指揮所があり、約三十糎ほどのコンクリートに覆われた指揮所の中には小川隊長と先任伍長の中村春一上曹が常にいた。この指揮所より来る小川隊長の命令を、各砲台員全員が米艦を目の前にして今か今かと待っていた。何日も何日も火を使わず、食器の音も出さないようにして、生米をかじり乾パンを食べ、少しの水だけで我慢強く待ったのだった。

昭和十九年七月二十四日、サイパンよりテニアン港正面に向かって静かに前進を始めた米駆逐艦「ノルマンスコット」がテニアン港の正面を向き様子を伺う。米駆逐艦を目の前にして小川隊長の伝声管と地上電話の声は、「まだ待て、もう少し待て。」と伝えていた。「ノーマン」がテニアン港正面を向いたところ、隊長より大声で「全砲発射用意。撃てーッ。」ペペノゴル小川砲台の三門と二本ヤシ柴田砲台の三門が一斉に火を吹き、雷鳴のような砲声が轟く。最初の一発づつが「ノーマン」の機関部と艦橋部に命中した。暫くして「米駆逐艦ノーマン、轟沈。」と砲台の奥にいる我々にも伝わってくる。歓声が上がる。「バンザーイ。バンザーイ。」挟み撃ちされた「ノーマン」は間もなく海に沈む。

次に巡洋艦「コロラド」がテニアン港正面を向いた。米艦に砲台の位置を知られてからの小川砲台は、柴田砲台と呼応して、連続発射し、合計二十二発を命中させた。巡洋艦「コロラド」は火災を起こし、相当数の死者と重傷者を出し、後退した。

しかし、歓びも束の間、次に何が起こるかは砲台員全員が知っていた。これに対する米軍の報復は筆舌に尽くしがたい激烈なものであった。

サイパンより三隻の戦艦と巡洋艦、駆逐艦が急行し、テニアンの砲台を砲撃した。小川砲台二番砲の銃眼より米艦の砲弾が飛び込み、砲台内で友軍の火薬に引火した。大火災が起こり、火柱が渦を巻いて火薬が飛び散り、戦死者多数を出した。

夕刻頃、砲長の杉本兵曹は戦死者の中より起きあがり、両眼が見えないようだったが私の声が分かるらしく、

手探りで近づいてきた。体に付着した火薬を取り除き、手当を始めると、

「手がもげているぞ、」との声によく見直すと、杉本兵曹の右の手首より先がないではないか。出血もなく、時計だけが動いていた。杉本兵曹は自分のことより、

「大丈夫か、」としっかりとした声で聞く。何と気丈な砲長かと感嘆させられた。側にいた神山兵曹に連絡し、野戦病院に運ぶ手配をして他の戦死者、荒井文衛門兵曹他の方々を砲台の南側に埋葬し、夜に入ると陸戦隊の準備をして小川隊長の後に続いた。

高木兵曹長、重傷を負う

昭和十九年七月二十五日、昼のことであった。サイパンからテニアンに向けての猛烈な一斉射撃を浴びる中、高木兵曹長は腹部に大砲の破片を受け、盲貫銃創を負った。苦しい息の下、「誰か殺してくれー。」と言いながら野戦病院に運ばれた。この病院は、ソンソンのテニアン港にぽっかりと口を開けた自然の洞窟を利用して設けられたものであったが、病院とは名ばかりで、缶詰の箱を並べて上に板を乗せ、その上にゴザを敷いただけのものであった。負傷兵を百五十名以上収容していたが、まだ続々と運び込まれていた。しかし、この病院がそのまま彼等の墓所になろうとは誰が想像しただろうか。

翌日までに米軍機の空爆によってこの洞窟は破壊され、逃げようもない負傷兵は全員が岩石と土砂の下敷きになってしまったのだ。後になって、我々は高木兵曹長の戦死をそこに確認した。

並木兵曹長の自決

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昭和十九年七月、二十五日か二十六日の夜であったと思う。テニアンの日本軍の陣地は米軍の打ち上げる照明弾で白昼の如く照らし出されていた。

既に陥落していたサイパンのアギーガンから砲列を敷いて打ち出す百数十門の十四糎長距離砲の砲弾は、煌々と照らし出された日本軍の陣地に正確に着弾した。我が小川隊もまた百雷の如き弾雨の中にあった。

多くの戦死者を出した我々小川隊の残存兵はマルポー水源地付近に集結していた。米上陸軍に夜襲を掛けると言う話であった。そこには陸軍の部隊も居たようだった。彼等は丸い弾倉の重機関銃を持っていた。

我々残存兵の中に並木兵曹長の姿もあった。しかし、此処が彼の死処となってしまった。雨あられと降る砲弾の一発が並木兵曹長の近くで炸裂し、砲弾の破片は彼の腰部と足を砕いてしまったのだ。

並木兵曹長は歩行もできず、夜であったために負傷の状態も良く分からなかった。皆が集まり、小川隊長も近くにいたように記憶している。小川隊はこれより敵上陸軍に突撃を行うため、西海岸方面へ前進すべく準備中であった。並木兵曹長は「隊のみんなと一緒に行動はできない。自分は皆の足手まといにはなれぬ。自決をする。」と言い、ピストルの弾の確認をしてもらって、西の方、日本の方を向かせてもらい、「隊長、お世話になりました。皆さん先に行きます。」と言うが早いか、こめかみに銃口を突きつけて引き金を引いた。私は並木兵曹長の壮烈な戦死の一部始終を目撃していた。しかし、彼を埋葬する暇もなくそこを発ったため、今だに誰が彼の遺体を埋葬したか分からない。

突撃

米軍の猛攻の前に指揮系統もずたずたになってしまった。我々は自分で自分を指揮し、一日一日を生きるのみであった。米上陸地点には近寄れず、陸軍部隊も散り散りになり、散発的にゲリラ戦を戦うのみであった。

小川隊は一日の内に準士官を二人も失ってしまった。隊長の心中を思いやる兵は、私だけでは無かったと思う。しかし、そんな想いも束の間、我々は米上陸軍に向かって遮二無二突撃して行った。上陸地点に近付こうとするが、真昼のような照明弾の明るさとサイパンから連続発射してくる重砲の着弾に阻まれ、散り散りになった我々には上官の命令も最早届かなかった。それでも我々は少しでも米軍に近付こうとしていた。

米軍は日本軍の倍の厚さの装甲を持つ戦車を先頭に、火炎放射機とバズーカ砲等の重火器の猛射を我々に浴びせ掛け、じりじりと我々に迫って来る。戦友は次々と戦死し、我々は為す術も無く後退していった。生き残った者はカロリナスまで後退を続け、各地の洞窟に潜んで夜襲の機会を伺った。我々と行を共にした陸軍部隊も同じ運命を辿ったようだった。

かろうじて生き残った私は、七月二十七日から二十九日までカロリナス付近の洞窟に潜み、玉砕の日となった三十一日には最後の司令部洞窟付近にいた。

小川隊長とは何処で別れたか当時は分からなかったが、後で伝え聞いたところによると、カロリナス台上のある壕に隊の本部を置いたらしい。

沼田砲台残存兵の自決

刑部孔久一機(横須賀出航当時)とは横須賀にて警備隊編成当時、小川隊の自動車運転員として私と二人で仲良くトラックの運転をしていた。十九年の一月から二月末までは南方戦線行きの準備で軍務に励む毎日を送っていた。

我々が乗船した「さんとす丸」は横須賀港を出港し、硫黄島付近で敵潜水艦に発見され、魚雷攻撃を受けたが、右に左に魚雷をかわし、無事にサイパン島に到着する事が出来た。

サイパンに上陸して荷物を一旦陸揚げしたのち、一時上層部の命令を待っていた。待つこと暫くして小川隊はテニアン島の要塞砲の築城を命ぜられ、直ちにダイハツでテニアン島に向かい、海岸砲の設置が開始された。その時から刑部一機はサイパン島の見えるテニアン北部に築城された沼田少尉指揮する十二糎砲台に配属となった。

その後、米軍の猛烈な砲撃により沼田砲台は壊滅し、仲の良かった同年兵の刑部とは別れ分れになってしまうのだが、意外やカロリナス最後の司令部近くで偶然再会することになったのである。しかし、そこは沼田残存兵の最期となる場所であった。再会の場が同時に別離の場になろうとは。時に昭和十九年七月三十一日昼近くであった。

カロリナス南端に第五十六警備隊の最後の司令部となった洞窟がある。それより西へ続く八十米位の小高く盛り上がったリーフの南側に平野兵曹を長として下士官、兵十数名の沼田隊の残存兵が集まっていた。平野兵曹の「我々は只今より全員自決する。」との命令に従い、内地の方角を向いて一列に並び、自決の準備をした。私が一番手前で、同じ運転員の山梨の刑部上水が私と並んでいた。皆で最期の水を飲み廻し、小銃の安全装置を外し、靴を脱ぎ、足の指を引き金に掛け、銃口を喉仏に当て、『これから自分は死ぬのだ』と覚悟を決めていた。内地の家族のことを思い出そうとしていた、想い出が走馬燈のように廻り、不思議と落ち着かない。その時、誰かが私の体を揺り動かした。ハッとして振り向くと隣の刑部が、「相良、平野兵曹が呼んでいるぞ。」と言っている。あらためて平野兵曹の方を見ると、

「おまえは、司令部を知っているだろう。司令部に沼田少尉がいるから呼んで来い、一緒に自決する。」と何度も言われた。何度か呼んだらしい。その時私は夢中であったため、平野兵曹の呼ぶ声が全く耳に入らなかったようである。

小銃を持ったまま夢中で駆け出した私の耳に、「早く大きくなってお父さんの敵を討ってくれ。」と叫びにも似た声が聞こえた。平野兵曹の声だった。日本に残してきた息子の名前を呼びながら何度も繰り返していた。平野兵曹の声を背中で聞きながら、米戦車に見つからないように司令部に向かって駆けていた。洞窟内の司令部までは二百メートル弱だった。

司令部に着き、入り口を覗くと、「だれかッ」と誰何の声、

「沼田少尉を呼びに参りました。今、皆が自決をしますッ」と早口に告げると、奥に座っていた年輩の将校が落ち着いた声で

「お前は運転員だな。中へ入れ。」と言われ、中に入ると、アッと驚いた。内地で二度ほど車でお送りしたことのある大家司令ではないか。司令は

「今、内地へ最後の無電を打って、全員で杯をしたところだ。お前もやれ。」と言われ、白鶴のビンを持って私に酒をついでくださるのだ。そして、

「今日は皆一等兵なのだ。今から皆で米軍に突撃するのだ。」と言われる。

言われて良く見ると、大家司令はじめ各将校達が、「今日は皆一等兵なのだ」という司令の言葉に従って全員が自分の階級章を切り取っていた。私が司令部に着いたその時点では六、七名が司令の前におり、この方達は皆将校なのだということだけは判っていた。

沼田少尉に平野兵曹の伝言を伝えると、

「これから司令と米軍に突っ込むのだ。直ちに自決を止めさせよ。」と言われた。また急いで司令部洞窟を出、平野兵曹達の所へ近づいた。しかし、そこに私を待つ者はなかった。自決の用意をしていた沼田残存兵は待ちきれずに自決をしてしまっていた。刑部一人、銃口が右に曲がり、死にきれずにいた。右目と耳の間に貫通して「ガボッ、ガボッ、」と音を出して出血しており、心臓はまだ動いているようであったが今はどうすることも出来なかった。間もなく絶命するであろう刑部に、「俺もすぐ後から行くから。」と言い、急ぎ司令達の後を追った。

行く先々、防風林に沿って相当数の戦死者が倒れていた。米戦車から打ち出す機関銃と砲で、前方のサトウキビが三四十センチの所から切れている中を匍匐前進で進み、小銃の弾丸五発全てを撃ち尽くし、米戦車に肉薄したが、どうにも前進は出来なかった。夢中でこの時は気が付かなかったが、顔がヌルヌルするので手で頭を探ると天辺に指がめり込んだ。頭骨を砕かれたらしい。もうすこし下に外れていたら即死であった。

司令達はどの方面かも分からず、進むも引くも出来ず、戦死者の中に埋もれていた。夕刻までそうしていたが、異常にのどが渇くのを覚え、夜になるのを待って司令部洞窟へ戻り、ドラム缶の水を飲んだ。早く自決しなければと心は急いていたが、水を飲んで少し気が落ち着くと、『刑部も死んだ。平野兵曹も死んだ。大家司令以下四百名の戦友もみんな死んだ。誰も帰ってこない。自分一人生きているのか。死なねばならぬ。明日は自決しよう。』と、腰の手榴弾を握りしめていた。その後、高野(現姓森岡)と出会うことになり、二人で一日又一日と生きることになる。

後で生き残った高野氏の話によりますと、大家司令はカロリナスへ退いた民間人、特に婦人や子供を大変心配しておられた様子で、「民間人は助けたい。」と何度も口に出しておられたということです。そして「我が守備隊は、七月三十一日午後零時零五分、総員総突撃を行ふ。祖国の安泰と平和を祈る。」と日本へ電文を打った後、司令が先頭に立ち、付近の生存者約四百名と米戦車群に最後の突撃を敢行、全滅してしまったということです。

それにしても、大家司令の「死ぬときは士官も兵もない。皆一兵卒として死ぬのだ。」との粛然たる覚悟と、この期に及んでの私たち兵に対する思いやり。このように立派な将校達を失ってしまったのは、日本にとって返す返すも残念に思われる。ひたすら御冥福をお祈り申し上げるのみ。

佐藤隊の奮戦

◯佐藤隊の編成
隊長 海軍特務大尉 佐藤幸助
副長 海軍少尉 新宅数馬
分隊士 海軍兵曹長 池田
海軍兵曹長 山本
海軍兵曹長 屋代
専任伍長 海軍上等兵曹 坂田

総隊員約七十名強にて兵員の内容は下士官多く一般兵が少なく、応召の年配の兵も多勢居り、日本内地にては極度に男性が少ない。この佐藤特務大尉にしては人員も極端に少なく、内地にて実戦に使える兵の教育にも間に合わず前線に送り出した様子にて、佐藤隊も御多分にもれず少ない兵員にて南方方面のチモール島へ向けて船足を速めて居た時すでに遅く、太平洋には米潜水艦の出没攻撃があり、途中より日本上層部の命によりマリアナ方面航空隊の増強に伴い対空砲の増設の必要に迫られ、第八十二防空隊田中吉大郎中尉以下二〇〇名、二十五糎隊空機銃二十四門、第八十三防空隊田中明喜中尉以下二五〇名、七十五糎高角砲六門の装備が三月初旬に第一飛行場付近ハゴイ地区に配備された。

四月にテニアン第一飛行場に到着した佐藤隊は、七十五糎高角砲四門を持つ佐藤隊長と田中隊長との間に自然に共同作戦を取る様になり、高射機関銃の田中隊と高角砲の佐藤隊が急ピッチにて飛行場付近の防備陣地を構築した。

元に話は戻るが、鹿島山丸には佐藤隊と菊地隊と大岩隊が乗船して居たが佐藤隊と菊地隊がテニアンへ下船、大岩隊のみトラック島へ向かう佐藤隊の高角砲の一門の部品故障にてサイパンより池田兵曹長と弓田兵曹が内地へ持ち帰った。

佐藤隊は東ハゴイ第一飛行場東側の隊本部防空壕にて米軍機の攻撃を受け佐藤隊長と新宅小隊長が本部にて壮烈な戦死を遂げた。残った分隊士の指揮にて米機に高角砲と高射二連装機銃にて応戦、米グラマンと正面より撃ち合い、数機を落としたのだ。この戦いにて佐藤隊のほとんどの隊員が戦死し、残った椎名新一先任兵長が二、三名の兵を勇気付けてカロリナスへ後退し、青柳喜三郎上水他一名位しか見当たらず、海軍第五十六警備隊の残存兵も七月三十一日正午の総員突撃にて二、三名を残して玉砕したのだ。

佐藤幸助特務大尉は家族妻トクと娘カツ子を内地に残し、家督を継いだ恒春氏夫妻も五十回忌の現地慰霊祭に参り一心に供養の真を捧げて参りました。又、立派な戦死をカロリナスにて遂げられました青柳喜三郎上等水兵も内地に三才の子供と生後間もない乳のみ児を残し、未亡人となったアサ様も数回程テニアン慰霊団に参加し、亡夫のあれ程飲みたかった水を上げ、香を手向けてお参りをされました。御遺族方の戦後のご苦労の程は筆者にはとても書けません。涙だけが先に落ち書けませんので御許し下さい。テニアン島の全戦死者の御冥福を祈ります。

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